大溝城

JR近江高島駅の東側、徒歩5分ほど行ったところに石積みがあります。これが、織田信長が甥の信澄に命じて作らせた大溝城天守の跡です。

羽柴秀吉に長浜城を造らせ、明智光秀に命じて大津の坂本に城を造らせた信長は、安土の地に自ら安土城を造ります。そして、天下統一の布石として琵琶湖を固めようとした信長は、ここ大溝の地にも城を造って、琵琶湖を四つの城でガッチリと固めようと考えたのです。

そして、天正6年(1578)、今から440年ほど前に大溝城を完成させました。先ほども書いた通り、信長の甥の織田信澄が築城の指揮をとり、縄張り(設計)は明智光秀と伝わっています。

この時に築城された長浜城や大溝城などの4つの城は、平野部に、それも琵琶湖に面した場所に造られた水城です。(安土城は、現在 水城の面影は感じられませんが、滋賀県で一番大きな内湖であった大中湖を控えていました。)

大溝城は、内湖である乙女ヶ池を自然の堀として活用して築城されたと言われており、古図面を見るとそのことが良く分かります。

大溝城の築城から4年後に、本能寺の変が起こり信長は殺されますが、大溝城の築城に関わった織田信澄の奥さんが光秀の娘であったことから謀反を起こすかもしれないと恐れられ、偶々 出兵中であった大坂城で追い詰められ、信澄は自害します。

その後、城主は数年ごとに変わり、豊臣秀吉の直轄領であった時代や、近江の名門家の出であった京極高次が城主を務めたこともありました。因みに、高次の奥さんは浅井三姉妹の二女の初姫です。

その後、大溝城の天守は取り壊され、今の甲賀市水口町の水口岡山城の築城の為に部材が使われたとされています。大溝城が解体された時期についてはいくつかの説があって、様々な状況証拠からすると、いずれの説も決め手となるものがなく、ミステリーの一つとなっています。しかし、天守自体は築城から20年ほどした頃には解体されたものと考えるのが無理がないとされています。江戸時代に入る20年前のことです。

ところで、琵琶湖の周辺部に4つの水城が築城される以前の日本の城は 山城が普通でした。琵琶湖畔に築かれた4つの城が平野部に築城された城としては先駆けになるわけですが、今 現在 水城の特徴を残した遺構が現存しているのは、石積みのみとは言え、ここ大溝城だけです。

石積みは「野面積み」という工法で作られており、地元の打下区の石工達が築いたとも言い伝えられていますが、石積みの傾斜角が緩やかで、ストレートであることなど江戸時代に築城された城の石積みとは際立った違いが見られることから、戦国時代の築城技術をよく伝える貴重なものとされています。